学生時代、硬式野球部に所属しました。昭和50年(1975年)に京大工学部土木工学科に入学して最初の新入生ガイダンスの時に、初めて知った京大教授が高棹琢馬(たかさお・たくま)先生でした。その年の土木教室主任教授は高棹先生、教務担当助教授は土質力学が専門の太田秀樹先生でした。ガイダンスで太田先生が、自分はホッケー部の顧問であるから、新入生諸君是非ホッケー部に入ってください、と宣伝されました。それを受けて、高棹先生が、自分は硬式野球部の部長である、ホッケーもいいが、野球部にも入ってほしい、と言われました。高校の時にも野球をやっていた私は、初めて出会った教授先生が野球部の部長だと知って、何か運命を感じたものでした。
 
しかし、すぐには野球部には入りませんでした。当時、西宮に住んでいて(高校は県立西宮北高校でした)、芦屋から国鉄(現在のJ R西日本)の快速(「新快速」はなかった)で京都まで来ていたため、課外活動をする時間的余裕がなかったのです。
 
1年生の9月後半の前期試験は、学生運動の名残で、教養部(今の吉田南)の正門が学生たちのバリケード封鎖によって中止となりました。2月前半の後期試験も同じく流れました。もうすることがない、今なら、野球の春のシーズンに間に合う、と2月になってから野球部に入ったのです。実は、父親の転勤で1年生の11月には高槻の摂津富田に転居していたので、野球部に入れたという幸運もありました。
 
野球部に入ると部長の高棹先生にも年に何回かお会いする機会もありました。そして、4年生になる時の研究室配属は、迷わず高棹研究室を選びました。高棹先生の専門の水文学(hydrology)を志したわけではありません。部長の研究室だと何かといいことがあるだろう、という漠然とした考えでした。秋まで野球をやって、卒論を終え、修士課程に進学できました。修士の時は、日曜日は塾講師のアルバイト(小中学生相手の6時間の授業)のために新幹線(こだま)通勤で米原の駅前まで行っていましたが、平日と土曜日は、野球部のコーチをしていました。
 
修士2年の夏頃、助手の一人が防災研究所に異動するから、その後任にならないか、と高棹先生から誘っていただきました。監督をしている者も他大学に栄転するから、ついでに野球部の監督もやってほしい、とのことでした。その流れに身を任せました。もう少しいろいろエピソードもあるのですが、野球が私の人生を決めてきた、と言えます。高棹先生に出会わなかったら、父親が転勤していなかったら、今の人生はなかったでしょう。その後、教授になってから監督をさらに2年、部長を14年も務めました。これからも野球がいまだに人生を左右しそうな予感もしています。
 
人生とは奇妙なものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

大学3回生の頃(1978年1月)。
応援団とのマラソン大会で4位。
 

2012年秋季リーグでの副会長あいさつ
 

関西学生野球連盟副会長として開会式に臨む2012年9月
 

開幕戦での始球式
 

関西学生野球連盟 2014年秋季リーグ戦(皇子山球場:対関学大戦)
10/11 関学1回戦:監督の後ろに立っているのが田中英祐君(京大からのプロ野球選手第一号)。
 

10/12 関学2回戦:これが教授監督(2013-2014)の最終戦でした。